[漫画]僕らは願う者なのだ。『惡の華』11巻
最終巻の更新するまでに時間かかってすいません。ネタバレ注意記事です。
僕はうれしい 仲村さんが消えないでいてくれて
絶望し、この世は汚いと何度も何度も言ってきた仲村さんが、世界を綺麗と言った瞬間がかつてあった。
世界でたったひとりぼっちだった仲村は、春日と契約を交わし、ともにすべてを終わらせる覚悟で刃を手にした。仲村のそこまで駆り立てたのも、春日をそこまで駆り立てたのも、お互いの存在があったから。
この気持ちを少しでも分かり合える誰かがいてくれる。その歓喜は彼らを救い、そして破滅へと追いやった。人生を壊してしまった。
誰かに心をゆるすことができた瞬間というのはきっと輝くものだし、心の闇から沸き上がる強烈な絶望を抱えていたって、浄化はされなくとも癒やされてしまう。仲村さんは春日に共鳴して、たとえあんな形であっても、一時の幸福を得ていたように感じる。
仲村と春日を結びつけた感情は、同族意識と興味とかすかな恋心が交じり合った、憐れみだったのかなと思う。
互いが互いにとっての唯一無二の存在となり、少女にとっては世界の美しさを感じるスイッチとなる。
そう考えるとむしろ、春日にとっての仲村さんより、仲村さんにとっての春日の方が、その存在価値は大きかったのかもしれない。
けれど仲村さんは自ら手を離した。祭りの夜に、一方的に遮断した。
2人は世界を変えられなかった。大人になった。そして再び巡りあった。
きっと最初で最後の再会が、この最終巻には全力で描かれている。
そんなわけで惡の華、最終巻となる11巻の感想です。
そもそも春日と仲村さんは恋愛感情があったのかと。いやそれはねーよと思うんですが、けれど2人の関係について考えていた時、やっぱり恋という言葉が欲しくなったんだよな。だからもう、これは色々と、そういう風にこじつけたいための記事かも知れません。
過去の惡の華の感想記事。
クソムシたちが再び蠢く… 『悪の華』4巻
背徳と情欲で暴走する少年少女に目が離せない!『惡の華』5巻
思春期の大暴走…もう後戻りはできない!『惡の華』6巻
その目に焼き付けてくれよ、僕らの”惡”を。『惡の華』7巻
怯える幽霊と忘れられない華の影。『惡の華』8巻
Reborn.『惡の華』9巻
She was beautiful.『惡の華』10巻
巡りあったのは海辺の町。10巻の感想で書いたように、仲村さんと「水」はなにか強いつながりを感じます。だから出会った山の町から抜けだして、ふたり行き着いた再会の場所が海というのも意味があるように思う。
仲村さんが発する言葉はさりげなくそして軽やかで、なのに読者としてはすさまじい緊張を持ってそれを受け止めてしまう。春日にとっても常磐さんにとってもきっとそうだった。この場面の張り詰めた空気は、思わず読んでいて息苦しくなった。むしろ息をとめつつ読んでいた感じ。
切実な感情を持って挑みかかる春日をかわすように飄々とした仲村さんの態度は、それはそれでなにか恐ろしい。憑き物がおちたような、もう成仏寸前(?)というか。
「あの時」のことを春日は尋ねた。もうずっと聞きたかった事を。
けれど仲村さんは応えないまま、距離を縮めようとしないまま、ただ空を指さしこう言うのだ。
「もうじき日が沈む この町は海の中に日が沈むの それでまたあっちの海から日が昇る ず―――っと ず―――――っと ぐるぐるぐるぐる キレイ…でしょ?」
澄んだ表情でそんなことを言うものだから、春日くんだってそりゃ怖い顔になっちゃうよ。
海に日が沈む。かつて彼らがいた町では、太陽は山に隠れるように沈んだ。
あの頃と今では、一日のはじまりとおわりすら違う。
仲村さんは海に救われている……となるとやっぱり山田舎isクソ。
春日がちゃんと怒ってくれて良かった。彼女をむりやり振り向かせてくれて、良かったなぁ!
無理やり倒して引きずり込んで、一緒に海の中で汚れてしまう。
衝動的なようで、予め決められていた儀式めいたような感覚でしたね、このシーン。だってこれくらいやってくれなきゃ、終われないじゃん。
このとき春日がちゃんと常磐さんを掴んで引き込んだのも素敵だった。
遠慮なく、自分の人生に彼女を関わらせることを選んだと言える。
こういう決断力と勇気はかつてから春日に備わっていたけれど、常磐さんとの関係においてはどれもポジティブな意味を持つ行動につながっているのがいいよなぁ。感情に振り回され暴走するだけではない。もちろん刹那的な感情の爆発がその根っこには当然あるのだけれど。
仲村さんとの物語では、彼のその素質は、破滅しかつかむことが出来なかった。
そのことを考えるといかに常盤さんとの関係が彼の心を上向かせているのかと、改めて嬉しくなってしまう。
「よかったね そうやってみんなが行く道を選んだんだね」
という仲村さんの言葉が印象に残る。そのあと仲村さん自身はどうなのかと尋ねられ、彼女は白目を剥く(本当に)。そしてそれに返事をすることなく立ち去ろうとする。
道を踏み外したかつてのこと、そして今なお「普通」ではないことは今の彼女にとって強い意味を持っていて、それに縛られ続けているように感じる。
(彼女の開放の可能性が少しだけかいま見えるのは、作中ではもう少し先の第56話)
だからこそ、「ふつうにんげん」という言葉を春日に投げかけた時の彼女がとても好きです。
それがお別れの言葉であり、2人を別つ大切な響きを宿した呪いの言葉でもある。
これ以上ないほど愛情深く、決定的な、さよならの挨拶。読めてよかった……。
春日のなかに仲村さんは永遠に消えないままだろうけれど、きっともう会えないんだなぁ。
ああ。あの見開きの笑顔を見てしまったら、もう何も言えないくらいに思っていたけれど・・・
感想として吐き出そうとすると、結構いろいろ言葉はでてくるな・・・。
この作品のクライマックスはこの海辺のシーンであり
これ以降、作品はじっくりとエピローグに突入していきます。
そういえば薄々分かっていたことだけど、仲村さんのお母さん、いい人そうでよかった。お父さんが彼女のことをボロクソ言っていたことが思い出されますね。いかにあの親父が責任転嫁していただけだったのかと。
そして雪崩れ込むエピローグ大学生編!!そしてもっと未来の光景へ。
ウーーーオォォ!多くは語らないけど「ブチ殺すぞ」って感じですね。うーん。春日くん幸せそうだぞ。
みんな、思春期という地獄をくぐり抜けていく。
あんなに抉らせていたあの娘も、あんなに孤独だったあの人も、あんなに絶望していた僕も
みんな「かつて思春期に苛まれた少年少女」になっていく。
第56話なんかは奇妙な、不気味な浮遊感に襲われた。異世界に迷い込んだような…事実そのとおりの心象世界が展開される中で、彼ら彼女らの未来の断片が示されていく。
ページの散り続ける惡の華のカケラの存在感に不穏なものを感じるものの
それぞれの未来は、きちんと前を向いた幸福のための歩みだった。
決して破滅のまま終わらない、そこからの再生にまで踏み込んだ作品となってくれたことを嬉しく思う。
(いやこれは・・・という解釈については後述)
成長した春日が言った詩集「惡の華」に対しての言葉は、照れ隠しというより達観した、素直な成長を感じさせられるものだった。なんだか寂しい。
そして仲村さんは。佐伯さんは。・・・ここらへんは読んでもらいたい所です。
春日は執筆に取り憑かれる。
仕事でも趣味でもなくそれが天命かのように、原稿用紙に一心不乱になにかを書き付ける。
かすかに読むことができる文面から予想するに、春日は自分の少年時代を文字に書き起こしている、のかなと思う。もしくは過去を題材とした創作物。押見修造先生が、この「惡の華」を描いたと同じような構図で。この最終巻の最後の作者コメントも、方眼用紙に書かれた肉筆文字でした。
その第55話の冒頭には1ページまるまる使って大きく「悪の華」の刻まれたページがあります。作品名は「惡の華」なので「アク」の表記で区別されているのは、何らかの意図がある演出なのだろうとは思う。
作品の構造的に反則だろうとは思うけれどひとつあり得そうな考えとしては、春日が一心不乱に書いているその作品は、この「悪の華」というタイトルで、第55話以降の内容には彼の創作が入り交じっているのでは、ということ。
そういう可能性があるなと思うだけで、それ以上もそれ以下でもありませんが・・・。
「惡の華」の後期は特にこういった暗示的な描写が多くて、読み取る面白さはありましたが答えを用意してくれてはいないので、あとは読者がどう感じどう解釈するかですね。
第56話、パンツ一丁で目覚める春日。ここで読者は「なーんだ夢だったのか」と思わされてしまう。
描かれた彼ら彼女らの未来を、春日が見た夢オチとして受け止めてもいいけど、でも俺はできれば本当の未来として受け止めたいな。
そうでなくてもあの光景が本当になってくれればいい。春日が執筆しようとしている物語の中で、春日も仲村さんも佐伯さんも常磐さんも幸福となってくれてもいい。
虚像と現実の境界な曖昧な描かれ方をしているからこそ、信じたい。
この56話、タイトルもまた最高なんですよ。噛みしめる。
「僕らは願う者なのだ」。
最終話の話。
仲村はかつて春日に救われようとしていたし、救われたがっていた。いや救われていたのかもしれない。祭りの直前、あの日、世界に美しさを見いだせるくらいには。けれど彼女を救い癒やしたのは、春日ではなかった。
春日のいない、静かな日々が彼女を優しく癒やした。
中学時代にあれだけのことをしでかして、町を出たらすぐに心穏やかな日々に・・・なんてそんなことありないし、絶対に彼女なりの強烈な葛藤とか苦痛を乗り越えて、いまの平穏にたどり着いている。それは間違いない。
けれど今の仲村さんはそんなことを春日には告げなかった。
それでいい。そうでなきゃ2人はお別れできない。そして今、彼女はかつての世界から抜け落ちて、綺麗な世界にいる。
最終話。
最終話は原点に立ち返り、思春期の地獄に時間は巻き戻る。世界にたったひとりぼっちだった頃のこと。けれどなんだか気になる人が出来た時のこと。世界が少しだけ綺麗に見えた時のこと。
先にも書きましたが、春日と仲村を結びつけた感情は恋心のようなものだったと自分は思うけれど、それは思春期にありがちかもしれない、自分の近しいものを持っている人の同族意識のようなものが大半だったようにも思う。けれどきっかけはそうであれ、これだけ1人の人間に、心も人生もかき乱されてしまったら、それはもう恋を超えたものになるのかなとも思う。
ここで示されているのは仲村さんにとっての「救い」の見方のようなものでもある。
春日はかつて仲村さんを救いたいと言っていたけれど
実はもう、彼女は彼に救われていたのだと。
まるで最初からすべてひっくり返されたかのような最終話だったのです。
第一話のリフレイン。視点を仲村さんによるものに切り替えたこの最終話。
ゆがんだ視界は晴れて、今なら君の顔だってよく見えるのだ。
この最終話に関しては、雑誌掲載時のことも書いておきます。
これは雑誌での演出が、本当に素晴らしく、内容に寄り添うものだったから。
雑誌掲載時、この最終回は一部カラーページになっていたのです。
コミックス収録にあたってこのカラーはモノクロに変わってしまったのですが
このカラーの使い方は個人的にとても好きで、最終話の余韻をより深いものにしてくれたナイス演出だったので、モノクロ収録になってかなりガッカリしています・・・。
空の色。仲村さんの髪。どちらにも同じ、強烈な赤が乗せられている。
すべての始まりのあの日。罪を背負った日。出会ってしまった日。
あの日の空はどんな色だったろう。こんなふうに君の髪と同じ、真っ赤な色をしていたのか。
あの日、空は君の色をしていたんだ。・・・そんななんともにくい演出が光る。
単なる第一話への回帰じゃない、新しい視界が開かれたような衝撃がありました。
これは是非、コミックスでもカラー収録して欲しかったなぁ・・・。
面白いのが仲村さん視点となった時、クラスメートの女子(と思わしき黒い怪物)の胸だけ、他の身体の部位とは違ってグリグリと乱雑に書きなぐったように輪郭がぼやけている点。
こんなふうに女としてのパーツになんらかの(おそらく負の)強い感情を抱くのは思春期の女の子っぽくてかわいいなーと、思春期の女の子のことなんて全然知らない俺はほくそ笑む。
8巻、常磐の書いた小説を読んだ春日が「この主人公、これは僕だ」と涙を流しました。
そういう何かが、この作品にはあった。
「この漫画を、今、思春期に苛まれているすべての少年少女、
かつて思春期に苛まれたすべてのかつての少年少女に捧げます。」
作者は毎巻、こんな言葉を最初に読者に投げかけています。
「この主人公は僕だ」と、そんなエゴな感想を抱ける程に、常磐さんのノートに書かれた断片の小説に感動した春日のように、「惡の華」に心酔した自分もいた。
「惡の華」は違う世界に踏み出していった。
「惡の華」は思春期の只中と、そこから脱出するための日々と、かつてを回想する未来が描かれた。
この作品を楽しめたのは、思い返してみれば、恥ずかしいことに、「これは俺のことだ」と思い込んでしまうような要素がたくさんあったからなんだろうと思う。
そんな恥ずかしいことをこうして言葉にできてしまうのも、この作品の魔力でもある。
示された彼ら彼女らの未来が本物なのかどうか。どの道、彼らは物語の中で勝手に生きていくだろうし、俺はもう願うことしかできない。思春期に翻弄された、こんなにも間違えてしまった、こんなにも愛おしい彼らの行末に、第54話の夜空に浮かんだひとかけら程の星が光を落としてくれていたらいい。
「惡の華」という作品を読めて嬉しかったです。ありがとうございました。
『惡の華』11巻(最終巻) ・・・・・・・・・★★★★☆
救われ難い彼らの救いの未来。「僕らは願う者なのだ」!
惡の華(11)<完> (講談社コミックス) (2014/06/09) 押見 修造 商品詳細を見る |
僕はうれしい 仲村さんが消えないでいてくれて
絶望し、この世は汚いと何度も何度も言ってきた仲村さんが、世界を綺麗と言った瞬間がかつてあった。
世界でたったひとりぼっちだった仲村は、春日と契約を交わし、ともにすべてを終わらせる覚悟で刃を手にした。仲村のそこまで駆り立てたのも、春日をそこまで駆り立てたのも、お互いの存在があったから。
この気持ちを少しでも分かり合える誰かがいてくれる。その歓喜は彼らを救い、そして破滅へと追いやった。人生を壊してしまった。
誰かに心をゆるすことができた瞬間というのはきっと輝くものだし、心の闇から沸き上がる強烈な絶望を抱えていたって、浄化はされなくとも癒やされてしまう。仲村さんは春日に共鳴して、たとえあんな形であっても、一時の幸福を得ていたように感じる。
仲村と春日を結びつけた感情は、同族意識と興味とかすかな恋心が交じり合った、憐れみだったのかなと思う。
互いが互いにとっての唯一無二の存在となり、少女にとっては世界の美しさを感じるスイッチとなる。
そう考えるとむしろ、春日にとっての仲村さんより、仲村さんにとっての春日の方が、その存在価値は大きかったのかもしれない。
けれど仲村さんは自ら手を離した。祭りの夜に、一方的に遮断した。
2人は世界を変えられなかった。大人になった。そして再び巡りあった。
きっと最初で最後の再会が、この最終巻には全力で描かれている。
そんなわけで惡の華、最終巻となる11巻の感想です。
そもそも春日と仲村さんは恋愛感情があったのかと。いやそれはねーよと思うんですが、けれど2人の関係について考えていた時、やっぱり恋という言葉が欲しくなったんだよな。だからもう、これは色々と、そういう風にこじつけたいための記事かも知れません。
過去の惡の華の感想記事。
クソムシたちが再び蠢く… 『悪の華』4巻
背徳と情欲で暴走する少年少女に目が離せない!『惡の華』5巻
思春期の大暴走…もう後戻りはできない!『惡の華』6巻
その目に焼き付けてくれよ、僕らの”惡”を。『惡の華』7巻
怯える幽霊と忘れられない華の影。『惡の華』8巻
Reborn.『惡の華』9巻
She was beautiful.『惡の華』10巻
巡りあったのは海辺の町。10巻の感想で書いたように、仲村さんと「水」はなにか強いつながりを感じます。だから出会った山の町から抜けだして、ふたり行き着いた再会の場所が海というのも意味があるように思う。
仲村さんが発する言葉はさりげなくそして軽やかで、なのに読者としてはすさまじい緊張を持ってそれを受け止めてしまう。春日にとっても常磐さんにとってもきっとそうだった。この場面の張り詰めた空気は、思わず読んでいて息苦しくなった。むしろ息をとめつつ読んでいた感じ。
切実な感情を持って挑みかかる春日をかわすように飄々とした仲村さんの態度は、それはそれでなにか恐ろしい。憑き物がおちたような、もう成仏寸前(?)というか。
「あの時」のことを春日は尋ねた。もうずっと聞きたかった事を。
けれど仲村さんは応えないまま、距離を縮めようとしないまま、ただ空を指さしこう言うのだ。
「もうじき日が沈む この町は海の中に日が沈むの それでまたあっちの海から日が昇る ず―――っと ず―――――っと ぐるぐるぐるぐる キレイ…でしょ?」
澄んだ表情でそんなことを言うものだから、春日くんだってそりゃ怖い顔になっちゃうよ。
海に日が沈む。かつて彼らがいた町では、太陽は山に隠れるように沈んだ。
あの頃と今では、一日のはじまりとおわりすら違う。
仲村さんは海に救われている……となるとやっぱり山田舎isクソ。
春日がちゃんと怒ってくれて良かった。彼女をむりやり振り向かせてくれて、良かったなぁ!
無理やり倒して引きずり込んで、一緒に海の中で汚れてしまう。
衝動的なようで、予め決められていた儀式めいたような感覚でしたね、このシーン。だってこれくらいやってくれなきゃ、終われないじゃん。
このとき春日がちゃんと常磐さんを掴んで引き込んだのも素敵だった。
遠慮なく、自分の人生に彼女を関わらせることを選んだと言える。
こういう決断力と勇気はかつてから春日に備わっていたけれど、常磐さんとの関係においてはどれもポジティブな意味を持つ行動につながっているのがいいよなぁ。感情に振り回され暴走するだけではない。もちろん刹那的な感情の爆発がその根っこには当然あるのだけれど。
仲村さんとの物語では、彼のその素質は、破滅しかつかむことが出来なかった。
そのことを考えるといかに常盤さんとの関係が彼の心を上向かせているのかと、改めて嬉しくなってしまう。
「よかったね そうやってみんなが行く道を選んだんだね」
という仲村さんの言葉が印象に残る。そのあと仲村さん自身はどうなのかと尋ねられ、彼女は白目を剥く(本当に)。そしてそれに返事をすることなく立ち去ろうとする。
道を踏み外したかつてのこと、そして今なお「普通」ではないことは今の彼女にとって強い意味を持っていて、それに縛られ続けているように感じる。
(彼女の開放の可能性が少しだけかいま見えるのは、作中ではもう少し先の第56話)
だからこそ、「ふつうにんげん」という言葉を春日に投げかけた時の彼女がとても好きです。
それがお別れの言葉であり、2人を別つ大切な響きを宿した呪いの言葉でもある。
これ以上ないほど愛情深く、決定的な、さよならの挨拶。読めてよかった……。
春日のなかに仲村さんは永遠に消えないままだろうけれど、きっともう会えないんだなぁ。
ああ。あの見開きの笑顔を見てしまったら、もう何も言えないくらいに思っていたけれど・・・
感想として吐き出そうとすると、結構いろいろ言葉はでてくるな・・・。
この作品のクライマックスはこの海辺のシーンであり
これ以降、作品はじっくりとエピローグに突入していきます。
そういえば薄々分かっていたことだけど、仲村さんのお母さん、いい人そうでよかった。お父さんが彼女のことをボロクソ言っていたことが思い出されますね。いかにあの親父が責任転嫁していただけだったのかと。
そして雪崩れ込むエピローグ大学生編!!そしてもっと未来の光景へ。
ウーーーオォォ!多くは語らないけど「ブチ殺すぞ」って感じですね。うーん。春日くん幸せそうだぞ。
みんな、思春期という地獄をくぐり抜けていく。
あんなに抉らせていたあの娘も、あんなに孤独だったあの人も、あんなに絶望していた僕も
みんな「かつて思春期に苛まれた少年少女」になっていく。
第56話なんかは奇妙な、不気味な浮遊感に襲われた。異世界に迷い込んだような…事実そのとおりの心象世界が展開される中で、彼ら彼女らの未来の断片が示されていく。
ページの散り続ける惡の華のカケラの存在感に不穏なものを感じるものの
それぞれの未来は、きちんと前を向いた幸福のための歩みだった。
決して破滅のまま終わらない、そこからの再生にまで踏み込んだ作品となってくれたことを嬉しく思う。
(いやこれは・・・という解釈については後述)
成長した春日が言った詩集「惡の華」に対しての言葉は、照れ隠しというより達観した、素直な成長を感じさせられるものだった。なんだか寂しい。
そして仲村さんは。佐伯さんは。・・・ここらへんは読んでもらいたい所です。
春日は執筆に取り憑かれる。
仕事でも趣味でもなくそれが天命かのように、原稿用紙に一心不乱になにかを書き付ける。
かすかに読むことができる文面から予想するに、春日は自分の少年時代を文字に書き起こしている、のかなと思う。もしくは過去を題材とした創作物。押見修造先生が、この「惡の華」を描いたと同じような構図で。この最終巻の最後の作者コメントも、方眼用紙に書かれた肉筆文字でした。
その第55話の冒頭には1ページまるまる使って大きく「悪の華」の刻まれたページがあります。作品名は「惡の華」なので「アク」の表記で区別されているのは、何らかの意図がある演出なのだろうとは思う。
作品の構造的に反則だろうとは思うけれどひとつあり得そうな考えとしては、春日が一心不乱に書いているその作品は、この「悪の華」というタイトルで、第55話以降の内容には彼の創作が入り交じっているのでは、ということ。
そういう可能性があるなと思うだけで、それ以上もそれ以下でもありませんが・・・。
「惡の華」の後期は特にこういった暗示的な描写が多くて、読み取る面白さはありましたが答えを用意してくれてはいないので、あとは読者がどう感じどう解釈するかですね。
第56話、パンツ一丁で目覚める春日。ここで読者は「なーんだ夢だったのか」と思わされてしまう。
描かれた彼ら彼女らの未来を、春日が見た夢オチとして受け止めてもいいけど、でも俺はできれば本当の未来として受け止めたいな。
そうでなくてもあの光景が本当になってくれればいい。春日が執筆しようとしている物語の中で、春日も仲村さんも佐伯さんも常磐さんも幸福となってくれてもいい。
虚像と現実の境界な曖昧な描かれ方をしているからこそ、信じたい。
この56話、タイトルもまた最高なんですよ。噛みしめる。
「僕らは願う者なのだ」。
最終話の話。
仲村はかつて春日に救われようとしていたし、救われたがっていた。いや救われていたのかもしれない。祭りの直前、あの日、世界に美しさを見いだせるくらいには。けれど彼女を救い癒やしたのは、春日ではなかった。
春日のいない、静かな日々が彼女を優しく癒やした。
中学時代にあれだけのことをしでかして、町を出たらすぐに心穏やかな日々に・・・なんてそんなことありないし、絶対に彼女なりの強烈な葛藤とか苦痛を乗り越えて、いまの平穏にたどり着いている。それは間違いない。
けれど今の仲村さんはそんなことを春日には告げなかった。
それでいい。そうでなきゃ2人はお別れできない。そして今、彼女はかつての世界から抜け落ちて、綺麗な世界にいる。
最終話。
最終話は原点に立ち返り、思春期の地獄に時間は巻き戻る。世界にたったひとりぼっちだった頃のこと。けれどなんだか気になる人が出来た時のこと。世界が少しだけ綺麗に見えた時のこと。
先にも書きましたが、春日と仲村を結びつけた感情は恋心のようなものだったと自分は思うけれど、それは思春期にありがちかもしれない、自分の近しいものを持っている人の同族意識のようなものが大半だったようにも思う。けれどきっかけはそうであれ、これだけ1人の人間に、心も人生もかき乱されてしまったら、それはもう恋を超えたものになるのかなとも思う。
ここで示されているのは仲村さんにとっての「救い」の見方のようなものでもある。
春日はかつて仲村さんを救いたいと言っていたけれど
実はもう、彼女は彼に救われていたのだと。
まるで最初からすべてひっくり返されたかのような最終話だったのです。
第一話のリフレイン。視点を仲村さんによるものに切り替えたこの最終話。
ゆがんだ視界は晴れて、今なら君の顔だってよく見えるのだ。
この最終話に関しては、雑誌掲載時のことも書いておきます。
これは雑誌での演出が、本当に素晴らしく、内容に寄り添うものだったから。
雑誌掲載時、この最終回は一部カラーページになっていたのです。
コミックス収録にあたってこのカラーはモノクロに変わってしまったのですが
このカラーの使い方は個人的にとても好きで、最終話の余韻をより深いものにしてくれたナイス演出だったので、モノクロ収録になってかなりガッカリしています・・・。
空の色。仲村さんの髪。どちらにも同じ、強烈な赤が乗せられている。
すべての始まりのあの日。罪を背負った日。出会ってしまった日。
あの日の空はどんな色だったろう。こんなふうに君の髪と同じ、真っ赤な色をしていたのか。
あの日、空は君の色をしていたんだ。・・・そんななんともにくい演出が光る。
単なる第一話への回帰じゃない、新しい視界が開かれたような衝撃がありました。
これは是非、コミックスでもカラー収録して欲しかったなぁ・・・。
面白いのが仲村さん視点となった時、クラスメートの女子(と思わしき黒い怪物)の胸だけ、他の身体の部位とは違ってグリグリと乱雑に書きなぐったように輪郭がぼやけている点。
こんなふうに女としてのパーツになんらかの(おそらく負の)強い感情を抱くのは思春期の女の子っぽくてかわいいなーと、思春期の女の子のことなんて全然知らない俺はほくそ笑む。
8巻、常磐の書いた小説を読んだ春日が「この主人公、これは僕だ」と涙を流しました。
そういう何かが、この作品にはあった。
「この漫画を、今、思春期に苛まれているすべての少年少女、
かつて思春期に苛まれたすべてのかつての少年少女に捧げます。」
作者は毎巻、こんな言葉を最初に読者に投げかけています。
「この主人公は僕だ」と、そんなエゴな感想を抱ける程に、常磐さんのノートに書かれた断片の小説に感動した春日のように、「惡の華」に心酔した自分もいた。
「惡の華」は違う世界に踏み出していった。
「惡の華」は思春期の只中と、そこから脱出するための日々と、かつてを回想する未来が描かれた。
この作品を楽しめたのは、思い返してみれば、恥ずかしいことに、「これは俺のことだ」と思い込んでしまうような要素がたくさんあったからなんだろうと思う。
そんな恥ずかしいことをこうして言葉にできてしまうのも、この作品の魔力でもある。
示された彼ら彼女らの未来が本物なのかどうか。どの道、彼らは物語の中で勝手に生きていくだろうし、俺はもう願うことしかできない。思春期に翻弄された、こんなにも間違えてしまった、こんなにも愛おしい彼らの行末に、第54話の夜空に浮かんだひとかけら程の星が光を落としてくれていたらいい。
「惡の華」という作品を読めて嬉しかったです。ありがとうございました。
『惡の華』11巻(最終巻) ・・・・・・・・・★★★★☆
救われ難い彼らの救いの未来。「僕らは願う者なのだ」!
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